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柔心左右衛門の独言
その十八 「受けるということ」 平成19年11月1日
体術の受けは難しいもの。
常に稽古でも、受けが出来てなんぼだと。
受けが、型と相手のテーマを理解していないと、型稽古は成り立たない。
うちの稽古では、
1、勝手に受けをとらない
2、踏ん張らない・固めない
この2大原則を守るようにと言っているが、これがまた難しい。
たまに初心者が、いったいどうしろというのだという顔をしているが、
その気持ちは分るのだが、それを考え、やろうとすることが稽古。
気をつけなくてはいけないのは、相手の欠点を見て駄目と判断して、受けを拒否すること。
相手のいい動きを感じ、認めることで、自然と流れに合った受けになる。
その十七 「相手を感じる」 平成19年11月1日
武道の武道たるのは、相手がいるということ。
相手がこの時にこうしてとかの状況や設定を意識するよりも、相手の存在をいかに感じ大事にしていくか。
体術の稽古は、そういう観点からも直接的になるので分りやすい。
相手に対し、距離を置きすぎても、近すぎてもだめ。
つまりは無関心でも、お節介でもだめである。
で どうするか。
それが難しい。
だから、稽古するのであろう。
その十六 見すぎる 平成19年5月9日
中級者になると相手をより見なくてはいけないが、
アドバイスをしてあげようとかの気持ちが強いため、
見すぎてしまうことがある。
見すぎは間になり、遅れてしまう。
間は取ることよりも、合わせるほうが難しい。
合わせることができるならば取れるから、合わせるときは合わせる。
だからこそ上位者は、下位者と稽古しても学べる。
これも型稽古の醍醐味。
その十五 ふってふらず 平成19年4月4日
力を抜くことで威力を出す稽古。
初心者には戸惑いが見える。
下半身を固め 腕で振ってしまう人が多い。
そして昔やっていた動きに頼ろうとしてしまう。
決して今までにやったことが間違いではない。
やっていること、やろうとしていることが違うだけ。
ふらずにふる。
腕と下半身、そして剣の一致という感覚をつかめた時に 、
過去にやっていたことが繋がり 今が生きてくる。
その十四 素直と熱意 平成19年3月30日
ついこの前 入ったばかりだと思っていた会員の人たち数人の動きがよくなっている。
1年近くやっているだからこそか。
最初の3ヶ月は何をしているのか、さっぱり分からず辛い時期もあったらしいが。
週に1回でもとにかく通って継続してくれれば、
分からないなりに教わったことが蓄積され変わってくる。
習い事の上達は決して才能のありなしではない 。
もっとも本当に才能があれば勝手に上達するだろうし、人に習う必要はない。
素直さがあれば学びを得られ 熱意があれば継続できる。
素直さと熱意 これが大事と 改めて思う今日このごろ。
その十三 姿勢 平成18年8月11日
先日、スポーツ新聞を読んでいると高校野球の記事に目がとまった。
ある関西の強豪校では打者に背筋を伸ばせと強く指導するとのこと。
その理由は背中が丸くなっいては、しっかりとボールと向き合えないから。
うちの古武道の稽古でも、細かい手足や剣の動き、角度に関しては注意することはないが、常に注意しているのが、
「下をみるな」、「顔をあげて」、「背中を丸めない」、「軸をたてて」。
古武道で型稽古をメインにしていると自分勝手な設定状況や体の使い方に目を奪われがちです。
が、武道であるかぎり 相手がいるのです。
相手や場と向き合うことが現代で古武道をやる意味が出てくるかと思っています。
ますは、手順や体を練る事よりも顔を上げ相手を見ることから始まると思うのです。
学ぼうとする意識、そして、学べる姿形。
全ては姿勢で始まり、姿勢で終わる。
その十二 教えるということ 平成17年6月28日
最初は分からないことでも ある程度稽古していくと
少しは理解してくるようになります。
そうなると 後から来る人にアドバイスをしたりする機会が増えてきます。
そこで気をつけてもらいたいのが
無理に自分でも曖昧なことを言葉にして説明する必要はないです。
また何も分からないからとそこから逃げる必要もなく
自分なりのイメージを簡単に伝えるだけでいいのです。
言われた方は言われた表現を無理にあてはめようとするのではなく
何を言われたのか その本質を探り
自分なりのイメージをつかむことこれが上達への道です。
指導するときは 自分が理解していると思っていることを押し付けるのではなく
相手のヒントとなるような 表現を伝えられるかが大事です。
全部を 一度にうまく伝えようとしても 伝わらない
無理な伝えは押し付けになる
相手に何かを伝えたいならば 相手にそれを感じてもらうこと
伝えるということは 気付いてもらうこと
その十一 ラーメン 平成17年3月29日
先日こだわりのラーメンを食べた。
たまたま通りがかったのだが有名なラーメン王がプロデュースしたとかで雑誌とかに載っていた店だ。
にもかかわらず なぜか ひるどきなのにすいている。
そこは魚のあらを数種類使い 見事なスープ 麺もこだわり
凝りに凝っている感じだ。
スープは澄んで まさに美しいラーメン。
また味も 癖もなく 爽やかな味わい。
ある意味 限られた原価の中で よくここまでと感心した。
作り手の これぞ究極のラーメンとでもいう気持ちが伝わるようだ。
でも また来ようと思わない。
無駄がなく つまらないのだ。
無駄なもの だめなもの それが味になる
それがあるから 気になるものに。
稽古においても
最初から無駄なことだと 教えられたり思い込んでいるとそれに気がつく機会も失われる。
無駄なことをやること、やっていることに恐れることはなく、向き合うことが大事だと。
その十 相手を見よう 平成17年3月14日
初めてやるような動きや理解していない動きをやる時に
どう動いていいかわからないことはよくあります。
余裕がないので、自分がやろうとする動きに囚われ
下を向き 自分の世界に入り自分の動きばかりみてしまうことがあります。
また、相手に対し自分が要求する動き 期待する動きのみに
注意が働き、それに反すると否定することさえあります。
自分の動きに拘るばかり 相手の欠点がよくみえてしまうのです。
見えるということは それなりの訓練をすると簡単に出来てしまうものです。
特に人の欠点ははっきりと見えてしまいます。
当然、自分の動きばかり追っていっても 相手の欠点ばかり指摘しても
稽古は成り立ちません。
稽古を成り立たせるためには 相手を見なくてはいけません。
相手を見るということは
目の前の相手 その人がどんな段階なのか。
何をしようとしているのか。 何をしたいのか。
そして自分はどうするのか。どうするべきなのか。
これらを考えてやるということです。
目の前の相手 周囲 場 それをしっかりと見、
そうして関わることで 自分が見えてくるものと。
その九 ひとつ 平成17年3月3日
古武道を始めたとき、
「軸を立てろ(そもそも軸って?)」
「体の中心」
「胸を緩めて」
さっぱり理解できない言葉。
そして、どう動いているのかもわからない動き
それでも、理解したい、動けるようになりたいから
始め、続けている古武道。
分からないから、出来ないからこそ続けている古武道
ようやく、少し道を進め、歩けるように。
まさに、継続は力なり。
さて、私が古武道修行時代、
稽古に参加して自分に課していたことがあります。
参加したら必ず何かひとつヒントをもらおう、
新しい気付きを得ようとしていました。
変な話、途中でひとつ得たと思ったら、後は流し(笑)
逆に、なかなか得ることが出来なかった時は
終了寸前まで、
時には、終了後も、
何か得ないと帰れないと貪欲にいたものです。
ただ、毎回ひとつを得ることは、そう簡単ではないです。
ですから、稽古はつらかったけど、楽しく、
また、休むこと、遅刻さえも恐れたのです。
いない時に何か得られることがあるのではないかと。
常にひとつだけ何かを学び、
2つ以上求めず、
そして、ひとつひとつのの積み重ねが
蓄積され力に。
その八 ジャズ 平成17年2月25日
先日家で 妻がビデオを見ていた。
そのビデオは「ジャズの歴史」という題名。
何となく一緒に見ていて、ジャズは調和であるということが分かった。
そういえば、ジャズのボーカリスト(?)でもある妻はまだ駆け出しで、
経験も技術も不足している。
そんな妻に一生懸命合わせようとしてくれたピアノの女性がいたそうだ。
彼女が何とか合わせてあげなければ、そして、
妻が足をひっぱらないようしなくてはとすればするほど、
ぎくしゃくとしたものになったそうだ。
我々の古武道の稽古でも この光景はよく見る。
中級者が、新しい人に対して
教えてあげなくては、見てあげなくてはという思いで
自分の知っていることを必死に伝えようする。
そして、新しい人は、
迷惑をかけて悪いな、相手の稽古にならないなと気にしながら稽古をする。
こういう状態では、互いに意味がなくなる。
中級者は自分の稽古が出来ないと嘆き、
新しい人は、迷惑ばかり掛けているだけだと嘆く。
中級者は、得られた相手の情報をどう生かすか。
これが稽古になる。
知っていることを全部伝えることでも、手取り足取り世話することでもない。
新しい人は、ヒントになる自分なりのイメージをつかむことが稽古になる。
言われること全てに依存するわけではない。
一方的に相手に合わせようとすることは当然調和は生まれない。
お互いがやるべきこと、やらなくてはいけないことを、
相手を尊重し信頼して、どこまでできるか。
この結果として、場に調和が、
そして、お互いが学びを得ることが出来る場に。
どれだけ、相手への信頼があるかどうか。
どれだけ、相手への愛があるかどうか。
その七 力を抜く 平成16年1月27日
古武道での稽古をはじめて、まず言われるのが「力を抜いて」ということです。
そして、言われるので、自分では力を必要以上に使わないようにします。
それなのに、また言われます。「力を抜いて」と。
ここから苦しむのです。自分では力を抜いているのになぜ。一体どうしろというのだ?
苦しみながらも稽古していると
ある時、自分が力んでいることに気がつきます。
そうしてはじめて、
いかに自分が無駄な(必要のない)力を使っているかということに気がつき
それを失くすようにと、自分で自分をチェックできるようになるのです。
力んでいる自分に出会った時に
ようやく古武道の稽古がスタート出来るのです。
ただ、それもまた苦しみの始まりですが。(笑)
その六 型と反復練習 平成15年9月12日
型には手順があります。
当然、その手順を覚えることは必要です。
ただ、型=手順になり、それを覚え、素早、かっこよく出来ることではないはずです。
この動作は何をして、何のためかということを考えながらやらないと、
ただ手順を追うだけになります。
型を反復稽古で学びとろうとしてはいけません。
確かに、たくさんやればやるほど都合のいい手順は覚えられるでしょうけど。
それが、何につながるかでしょうか。
型における、ひとつひとつの動作、手順は必然なのです。
例えば、体術で、受け手が手刀で相手を打ってくるときに、
体の中心をがら空きにして、
さらに、予備動作(手を振りかぶったり、足を踏ん張ったり等)があれば、
楽に、打ってくる前に逆に、相手に当身を入れられるでしょう。
つまり、型はそこで崩壊しまうのです。
気配をなく、体の中心を守りながら打ってくるからこそ、
受け止めたり、捌いたりしなくてはならないという、
動作・手順がでてくるのです。
また、取り手が打ってくるのを見越して、
先に都合のいい位置に入ることも同様です。
打ち手がいた場所ではなく、体の中心をみながら打てば、それは出来ないはずです。
ですから、型は反復で体に手順をたたきこませるのではなく、
何をしているのかと念頭におき、
必然状態をお互いに作ることをしっかり稽古すれば、
手順なんか、さほど覚えなくても、手順どおりに成り立つものです。
それが型なのです。
型は覚えるのではなく、感じるのです
その五 「攻め」と「守り」 平成15年8月21日
剣術において、上位者が構えると、
レベルの差を見れるようになっていると、
構えた瞬間に、取られる感覚で引いてしまう人がいます。
正眼の構えなど、守りに徹しやすい構えのときなど、
より、上位者に守りの気持ちで引いてしまうと、
簡単になります。
相手の中心を取る意識を高めることで、
はじめて守れるのです。
自分の中心を守るだけだと、相手は簡単に動けてしまうのです。
反対に、打っていくときに、
攻めることを頭に動いていくと、打たれやすくなることがあります。
守っていきながらいくからこそ、攻められるのです。
ここ数日の稽古で指導していて実感。
守りのときは攻めて、攻めのときは守ること
守りときは、攻めの意識を持って守りになり、
攻めのときは、守りの意識を持つことにより攻められるのである。
その四 「受け」と「受け身」 平成15年6月4日
体術において「受身」
基本的に、「受け」と「取り」が存在する稽古体系の中で
状況によって、受身が必要になります。
ただ、受身を語る前に、
そもそも自分達がやっている、やろうとしているのは何なのか
を考えなくてはいけないのではないでしょうか。
例えば、柔道の受身は、
明らかに、自分の身体を守る(怪我を防ぐ)という考えが強くでています。
これは、投げる、投げられるという関係、
そして、投げられるときには体は死に体にされています。
自分のやっている体術は、
剣の世界での、素手における表現だと捉えています。
間合があるうえでの攻防なので、
当然、間をとられること、剣でいう斬られる状態はさけなくてはなりません。
これが受身としての動作になるのです。
その場合、受けは、
間や体の中心を取られそうになるのをかわすというものになるはずです。
ですから、きちんとした受身は、
決して相手に投げられたわけでも、崩されたわけでもないのです。
そうする必然があるだけのことです。
結果として、その受けが、そのまま「返し」にもつながってきます。
受け身の時に音をたてる、たてないも、
取りと受けの相関関係で、何が行われているかです。
死に体にさせらせ、投げ飛ばされたら、
体で衝撃を殺さなくてはいけないし、
叩きつけられたり、巻きこまれても、
衝撃で音がでることになります。
また、自分から反動をつけて受けを取っても 音はでます。
この場合、武術的には、自分から死にに行くようなものですが。
(受け身を取ろうとした足を踏ん張る瞬間と受け身をとった瞬間が無防備
=剣でいう斬られる可能性)
では、音がたたないといいのかというと、決してそんなことはないです。
相手が技をかけてきた時に、自分の肩を抜いて、
柔らかくまわってしまう人がけっこういますが。
これもまた、武術的には自殺行為です。
肩を抜くということは、やはり死に体になります。
また、自分から勝手にまわっていくので、下半身が遅れます。
受けをとっている途中で、下半身が無防備になっているずです。
ですから、きちんとした受身は、やるべきことをするだけです。
相手がやろうとしてくる流に身を任せ、自分の体を合わせるのです。
ですから、先ほどものべましたが、それがそのまま、「返し」につながり、
相手がその流れに合わせると、「返しの返し」になっていくのです。
こうなると、投げた投げられたなどという感覚は、皆無です。
そんなことはどうでもいい世界。
相手に合わせるだけなので、
自分が受身がうまいとかいう感覚さえもおきませんので、
ちょと寂しくなるかもしれませんが。
相手がいるから、自分もいる。
これが、「柔(ヤワラ)」の世界だと思っています。
ですから、受身をとることは、負けでも、終わりでもなく、
受けがそのまま、場合によっては返しにもつながってくるのです。
もちろん、それが自分の身を守ることにもつながりますが。
初心者の人の受けが硬くなるのは、
受けを自分から取るものだといいう意識があるから、
自信がない「怖さ」が生じ硬くなるのでしょう。
受身は、受ける身なので、
自分から取ろうと思っては、受身の本質から離れてしまうのではないでしょうか。
良い稽古をするためには、
良い受けが出来なくては成り立たないし、
良い受けは、
一つ一つの型が自分達に何を課題に与えているのか
何の意味があるのかを考えることだと。
そして受けは、状況、相手の段階、何の稽古かによって
どれだけ使い分けできるかだと思っています。
@ 相手の無駄な動きを察知し、そこを止めていく受け
A 相手が無駄な動きに自然に引っかかるような受け
B 相手をいい動きを増長させる受け
C 相手の悪い動きを導いて消す受け
D 受けが最初から誘導する受け
このような受けを、さらに状況に応じて細分化して、
どれだけ対応できるかが受けのレベルだと思っています。
ここには、型稽古における技の方向性を無視しての
力任せの受けや肩や肘を力ませる受け、
勝手に転がる受けは 、
私の中には、受けとして存在できないです。
ですから、受けは取りよりも難しい、重要だということです。
型稽古において、
技がかかる、かからないなんてどうでもいいことです。
手順やテーマが決まっているものですから、
相手が無視したり、方向を遮断するような動きをすれば、
かかるほうがおかいしのです。
相手を崩す、崩れない、出来た、出来ないに捉われるのではなく
何の稽古をしているかを考え、
「受け」は稽古を導いていかなくてはならないものだと思っています。
その三 共同作業と感謝
「型稽古」は、単に手順を追っていくのでもなく、
乱捕り、スパーリングでもないので、
勝者、強い者を決めるのでもなく、
打太刀と仕(受)太刀の共同作業になるのです。
経験豊富で、体の使い方の技術が上の人が、
出来ない人に対して圧倒するのは当たり前です。
そこには、ただ、出来る、出来ないを表しているだけになります。
出来る人が、自分の作業にだけ没頭しても
型稽古は成り立たないと考えています。
共同作業は、「合わせ」であり、
上のレベルの者が、相手のいい動きを増幅させ、
悪い動きを目立たなくさせ、
下のレベルの者は、やるべきことを最大限にやるだけです。
こうなると、上位者には余裕などなく、
お互いにぎりぎりの状態で同じ立場で時を共有できます。
こうなると、相手に関わっているもの_全てに感謝すら覚えます。
そして、場にたいして得難い「縁」を感じ、
その時終えものだとやっています。
もっとも なかなか うまくいきませんが。
ついつい、相手に自分が上であることを示したいとか、
自分の動きしか考えてなかったりになってしまいますね。
それでもうまくいったときは、感謝、感謝。
その二 松浦静山から学ぶ
江戸時代、肥前平戸の第34代藩主であった、松浦静山。
文武両道の達人としても知られ、
多くの含蓄のある文章を残してくれている。
最近では、阪神の元監督、野村監督が、
「勝ちに不思議あり、負けに不思議なし」(正確な表現は忘れたが)
とスポーツ新聞上で語っていたが、
これも松浦静山からの引用でした。
「道場は楽屋 普段は本舞台」
世間の諺に
「楽屋に声を枯らす(本舞台に出る前に声が出なくなってしまう)」
というのは、もっともな言葉である。
近頃、講釈などといって席に並んで経書の講義を聴く者を見ると、
まことに立派な様子をしている。
ところが、その席から一旦退いてしまうと、
ため息をつく、欠伸をする、笑い戯れるといった具合で、
たちまち講義の内容とは裏腹の姿になってしまう。
これは講義の席が表、
普段の生活を裏と思っているからこうなるので先程の諺の通りである。
講義の席は、ものを学ぶ場所であるから、楽屋に例えよう。
普段の生活は実践の場所であるから舞台である。
楽屋は音色を合わせる場所であり、ここでは幾らでもやり直しをする事ができる。
しかし舞台に出てからはやり直しが出来ないのだ。
ここをよく考えねばならない。
剣術についても同様で、道場が裏、普段の生活が表である。
それを、道場で見事でさえあれば十分と思い込んでいるのは、
愚かな話である。
剣術も道場が楽屋、
普段の生活が舞台であることをよくわきまえよ。
先程述べた通り、舞台ではやり直しは許されない。
しかし道場では幾らでも練習を繰り返す事が出来るのである。
とかく剣を学ぶ者は、楽屋と舞台を取り違えて考えがちである。
「日頃の立ち振る舞いと剣の技の繋がり」
剣術においては、人の立ち振る舞いによって、
その腕前の程度を知ることが出来る。
始終、頭を物にぶつけ、
向きを変えようとすれば後ろの物に尻をあて、
立とうとすれば戸障子にぶつかり、
或いは置いてある物につまずき、
泥道で滑りなどをする者は、
その剣の技におうても粗雑な人である。
従って、日頃から人の動きを観察して、その人の程度を知っておくのがよい。
「平心の術」
色々な所で他流試合と称し、
人とその技を競い、
誰は誰に勝ったなどと誉めそやしている。
恐らく誉められた人は、己の技が優れているものと思うであろうが、
予はそうは思わない。
我が流派の精神によって言えば、
一時の勝利は生涯の勝利ではない。
例えその人に勝ったといっても、
一生その人に勝ったということにはならないのである。
秘伝だが敢えて言おう。
勝利したかしないを一時の結果だけで言うのは無意味なことである。
そうではなく生涯の勝利こそ勝利とするのが平心の術である。
もし剣の修行者でこの意味を悟ることが出来たなら、
その人こそ皆伝を受けるに足る人であろう。
※参考文献;『武道教伝書』(吉田 豊編 徳間書店) 『剣道日本』1985年10月号
その一 本心を練る
武道をやるということで大事なことは、
今、自分の状況、状態で何ができ、
そして、その状況を打破できるかだと考えています。
その為に先人が残してくれた「型」を通して、
体の使い方を学び、体を練っていくことをしています。
そこには剣の世界ですから、
斬られたら、というか、自分より上のレベルの人を想定して、
斬られる可能性のある動きをとことこん排除
していくという作業をしていっています。
そして、無駄な動きをなくし、
気配を消して、相手の「間」を取り、中心を押さえていくという意識を持っていきます。
そういった動き、意識を持って、「型」で攻防するのです。
斬られる可能性のある動きとは、
相手に何かしようとする時におきやすいものです。
「相手を打ちたい」 「負けたくない」 「投げたい 崩したい」 「うまくやりたい」
などの意識が体に出て、
そこが余計な「間」になるのです。
日常の動きと同様な動きをするべきなのに、
自らが変えることによって生じる隙間。
非日常である稽古に惑わされているのでしょう。
経験不足、センスがないので、技が出来ない言い訳をするのではなく、
その自分の範囲内でやるべきことをやればいいはずです。
出来なくしているのは自分自身なのです。
型稽古では こうした自分と向き合うことになり、
また、対人の稽古の場合、
相手、さらには周囲、環境に向き合わなくてはならなくなります。
ですから、日常の問題が、型稽古においてもあらわれ、
それを受け止め、修正することで日常に返していくことが可能性があると思っています。
体を練ることで、心を練ることに。
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